ベネッセハウス ミュージアム
撮影:池田ただし
ベネッセアートサイト直島

VATE:なぜ秋元さんだったんでしょう。

 

後になって聞いたんですが、人事の取締役が私が関わっていた雑誌の愛読者だったんですね。それで私の記事をずいぶん読んで頂いていたと。雑誌では、作家の紹介をしたり、美術ページを書いたりしていたので、そういうのを読んでくれていたみたいです。

 

VATE:その記事の評価が良かったわけですね。

 

すごくわかりやすく、普通の人に伝えようと努力している姿勢がいい、ということで採用となったんです。どこでつながるかわからんもんだなぁ、と思いましたよね(笑)。

 

VATE:美術館をつくるというお話ですが、

秋元さんに与えられた役割とはどういったものだったんでしょう。

 

これも後からわかったんですが、普通の民間企業が美術館をつくると考えているわけなので、専門家がきっちり作り込んだプランがあるわけではないんですよ。なので、入ってからすごく苦労しましたよね。自分の仕事を自分で作らないといけなかったですから。

 

VATE:と、いいますと?

 

あらかじめこういう美術館を作るというマスタープランがあったわけではないので、決まったゴールがあるわけじゃないんですよね。まず美術館の仕事は何なのか、というところから作る、みたいな話だったわけですよ。

 

VATE:では肩書きみたいなものもない、と。

 

専門のスタッフがいなかったんですね。一人が人事部長をやりながら、コレクションの管理もやっていたり。私が入った時に初めて会社として「美術館の仕事」というのが位置づいたんですね。

 

VATE:そのような状況で、秋元さんは何をされていったんですか?

 

コレクションはあるわけです。それを総務的、経理的な観点で資産として管理するというのもある。ところが、美術館として一番必要なそれを美術的にどう位置づけるか、どのように解釈して鑑賞者に面白さを伝えるかという、まさに美術の中心部分はぽっかり抜けていたんですね。なので、そこを作っていくという風な感じでした。

 

VATE:そもそも直島のプロジェクトというのは、どういったものだったんですか?

 

随分いろいろな変更点があるんですが、80年代の中盤ぐらいにベネッセが直島の南側に文化リゾート施設を作る、というマスタープランのようなものを発表するんですね。そのプランはキャンプ場や美術館、ホテルやゴルフ場などバブルの時期によくもてはやされたような開発計画に近かったんです。ただ、それをそのまま全てやるつもりはなくて、その中でやれることを少しずつやっていこう、という堅実なところはあったと思います。