タヒチボラボラにて
月刊ダイビングワールド取材時のカット

VATE:では学校外で学ばれていることの方が多かったんですかね。

 

まぁ、そうですね。3回生の専門教程ゼミは選ぶ時にいかに学校に行かなくても良いかが選択の条件でした(笑)。

だから4年の時には週に1日だけ必修の授業だけスタジオを抜けて行ってました。だって学校で習うことはすでにコマーシャルフォトなんかで紹介されていたり、講義に来る講師も前時代的なことばっかりで、全然おもしろくなかった。アシスタントに行けば最先端の技術が毎日転がってるわけで…。いろいろなことはこの師匠から学びました。

 

VATE:ではもうその頃には完全に将来は写真家で食っていこうと思われてたんですよね?

何の迷いもなかったですか?

 

迷いまくりでしたよ(笑)。当時の給料が今とは貨幣価値が違うとはいえ徒弟制度が残っていた写真界ゆえ月給が7万円。これでは食えないし、独立できるまで当時の周辺見てると30代半ばまでがんばらないと、という風潮があって、一旦写真の道は断念しました。それでまったく違う損害保険会社に就職。学生時代出逢った、ほとんど誰もやっていない水中写真を週末に撮るということを続け出したわけです。

 

VATE:保険会社に就職とはまた異色ですよね。

やりたいことと、違うところに就職って苦しかったでしょうね?

 

まあ自分に合わないながらも食うためと自分に言い聞かせてやってました。で、週末にはダイビングのインストラクションの手伝いを会社に内緒でサブワークとしておこなっていたのがストレス解消となっていたのです。

 

VATE:ダイビングをはじめられたのは、どういうきっかけなんですか?

 

はじめたきっかけは、やはり写真だったのです。アシスタント兼学生時代水面に写るネオンや波の形、しずくなど水関連を撮ることに面白みを感じていた頃、近くのダイビングショップで偶然自分が使っている一眼レフの水中ハウジングを発見してしまったのです。これがあれば波の裏側が撮れるなあ、と思い出してイメージがどんどん膨らんでいったら、もうほしくってたまらない。バイトを続けて毎日帰りに売れてないか確認。まったく水中写真が巷にない時代だったので並行輸入物で単品しかなかったのです。

 

VATE:で、そのハウジングは手に入れられたんですか。

 

手に入れましたよ!しばらくしてそのハウジングと水中マスク、足ヒレ、シュノーケルを共に買って、海や川に出かけて水面裏側ばっかり撮ってました。そのうちまた人の写真なのですが、中村宏治がPHOTO JAPONという雑誌でカラフルな水中世界でグラビア組んでまして、これに感銘を受けてダイビングを本格的にはじめました。今では宏治さんとは仲良くさせていただいていますし。会うたびに「はめられたぁ~!」って言ってます(笑)。